明 月 院
(めいげついん)

鎌倉市山ノ内189
横須賀線北鎌倉駅下車10分
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浄智寺からバス通りに出て踏切をわたり、すぐ左の小道に入り、右折して川沿いに少し行くと、明月院(臨済宗)があり、山号を福源山という。

寺の縁起では、1159(平治元)年の平治の乱で戦死した山ノ内の住人首藤(スドウ)(山ノ内)俊道(トシミチ) のため、その子経俊が創建し、あわせて平治の乱の一族の戦死者である伯父(オジ)那須資満の念持仏である如意輪観音を祀って本尊としたと伝える。

明月院は禅興寺の塔頭として成立したもので、開基は山ノ内上杉氏の祖で、1394(応永元)年に没した上杉憲方、開山は1390(明徳元)年没した密室守厳(ミツヒツシュゴン)である。
禅興寺は最明寺が廃寺となっていたのを再興したものといわれる。

最明寺というのは、北条時頼の山ノ内の邸のそばに建てられ、時頼の閑居の地とされた寺で、1256(康元元)年将軍宗尊親王を迎えてはじめての仏礼が行なわれ、時頼はここで蘭渓道隆(ランケイドウリュウ)を戒師として落飾(ラクショク)し、1263(弘長3)年最明寺の北亭で37歳で亡くなっており、時頼の死後最明寺は廃絶してしまった。

禅興寺は、北条時宗が蘭渓道龍を開山に1268(文永5)年〜1269(文永6)年頃、父の廟所の最明寺の地に建立したもので、山号は福源山といった。

1323(元享3)年の北条貞時13年忌供養に僧衆92人が参加しているのは浄智寺に次ぎ、いわば五山並みの規模をもっていたわけで、のちに関東十刹の一位もしくは二位とされたのも、鎌倉時代の地位の高さを反映しているものと思われる。

1380(康暦2)年足利氏満が伽藍を整備しており、数多くの堂塔が立並び、塔頭も明月院の他に4、5確認できる。その後しだいに衰微して、本来は塔頭である明月院に附属したような形となって、明治初年に廃寺となっている。

明月院は鎌倉公方足利氏満が管領上杉憲方(道合)に命じて、中興したと寺では伝えているが、実際には創建とみられる。

上杉憲方は山内庄岩瀬郷をはじめ、寺領を寄進し、1394(応永元)年死去している。法名を明月院と号し、一説にはこれまで明月庵と号していたのだが、この時に明月院と改められたともいわれる。憲方の子憲定や孫の憲基らもあいついで寺領を寄進しており、塔頭の寮舎も4軒は明らかで、寺の規模も大きく、明月院は塔頭というよりも一つの寺院といえるようでようである。

明月院の総門から境内にはいると、アジサイが一面に植えられ、小さな山門をくぐってすすむと正面奥に紫陽殿(シヨウデン)と呼ばれる仏殿がある。
本尊は如意輪観音で、わきに釈迦如来像なども祀られている。
仏殿にむかって左わきに行くと宗猷(ソウユウ)堂があり、密室守厳像を安置する。

宗猷堂の左にはやぐらがあり、上杉憲方の墓といわれる宝篋印塔を祀り、奥壁には釈迦如来と多宝如来とみられる像と、その両脇に十六羅漢像と思われる浮彫りがあるが摩滅が激しい。

開山堂の右には鎌倉十井の一つの瓶(ツルベ)(甕(カメ))の井がある。

総門にもどり、北側の小道を行けば北条時頼の墓といわれるものがある。

寺宝は公開されないが、一部鎌倉国宝館に寄託されており、上杉重房(国重文)は鎌倉時代の俗体肖像彫刻の代表とされ、烏帽子(エボシ)・狩衣(カリギヌ)・指貫(サシヌキ)をつけた写実的なもので、重房は上杉氏の祖といわれる。

北条時頼像(県重文)は入道した法体の姿で、14世紀の塑像(ソゾウ)の数少ない例として貴重だ。時頼といえば室町時代の謡曲「鉢の木」では老僧を連想するが、時頼は37歳で没しており、この像は活動的な政治家を思わせる。

明月院絵図(国重文)は、1398(応永5)年に没した足利氏満の花押があり、明月院の建物や境内のありさまをよく伝えている。

玉隠(ギョクイン)和尚像(国重文)は、建長寺住持で明月院において1524(大永4)年に没した玉隠英與(エイヨ)の頂相画(チンゾウガ)で自賛文がある。

明月膳や明月椀は茶人が珍重するもので、織田信長の弟有楽斎の寄進と伝え、赤い地に螺鈿(ラデン)の文様で飾られた華麗なものである。

明月院を出て、バス通りへでるあいだのあたりは、鎌倉公方の管領(執事)をつとめた山ノ内上杉家の管領屋敷跡といわれ、東と西の管領屋敷の伝承がある。

バス通りへでて鎌倉駅の方角にむかうと、バス停上町(カミチョウ)のあたりの右側に長寿寺(臨済宗)がある。
山号は宝亀山(ホウキザン)といい、鎌倉公方足利基氏が、父尊氏のためその邸跡に、古先印元を開山として建てたといわれる。

当時は七堂伽藍を備え、五山十刹に次ぐ関東緒山第一の寺とされ、尊氏の法名は京都では等持院殿というが、関東では長寿寺殿といったという。

境内は公開されていないが、観音堂は奈良県の円成寺の多宝塔を改築した美しいもので、中国から請来された観音像と、衣冠束帯姿の足利尊氏像と、室町時代の古先印元像が祀られ、裏の足利尊氏の墓には尊氏の遺髪が埋葬されているといわれる。

バス通りから長寿寺の横に入る道は鎌倉七切通しの一つ亀ヶ谷坂(国史跡)で、扇ヶ谷へ通じる古道である。


  【出 典 名】(株)山川出版社 新版 神奈川県の歴史散歩