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鎌倉の歴史 |
| 源頼朝公関係略年表 | 清和源氏略系譜 | 源頼朝公 |
鎌倉時代における事実上の日本の首都、南北朝・室町時代には鎌倉御所の所在地として関東の首府。中世を通じ政治軍事的消費都市として栄えた。相模国鎌倉郡の南端にあり、現在神奈川県鎌倉市の一部。東・北・西は100メートル前後の山に囲まれ、南は東方に飯島崎、西方に霊山ヶ崎、稲村ヶ崎をひかえて相模湾に接する。 域内に山地が多く、「ヤト」とよぶ谷が入り組んでいる、山と谷の町である。山には鶴岡八幡宮の裏の大臣山をはじめ、源氏山、絹張山、浅間山、観音山などがあり、川には滑川・稲瀬川・豆腐川などがある。 縄文海進期には、八幡宮前の平地はすべて海であったとされている。地名の由来は、いろいろあるが、地形によるとするのが妥当であろう。考古遺跡としては、先土器時代の遺品も出土し、縄文・弥生・古墳の各時代の遺跡があるが、ことに横穴古墳が少なくない。 鎌倉郷の名は、天平七年(735)の『相模国封戸租交易帳』にみえるのが初見である。鎌倉郷三十戸の田は一三五町一〇九歩であった。源氏と鎌倉との関係は源頼信以来で、頼信の子頼義は、石清水八幡宮を勧請して鶴岡八幡宮を創建し、源頼朝は、亀ヶ谷、いまの寿福寺のところに邸をかまえ、その子義平は鎌倉の悪源太とよばれている。 治承四年十月源頼朝は、先祖以来由緒の地として鎌倉に根拠をすえた。これから都市としての鎌倉が発達する。頼朝はまず鶴岡八幡宮を由比郷から現在のところに移して鎌倉の中心とし、大倉に邸をかまえて幕府をひらき、若宮大路その他の道路を改修整備し、腹心の大名の邸を町の要所要所に配置した。大倉幕府を中心に、御家人達の邸は東御門・西御門・雪ノ下・小町・大町・二階堂・浄明寺の辺り多く分布して山の手を形成し、材木座・由比ヶ浜・坂ノ下などは、東海道に近く、経済的活動の場となったようである。
承久三年の承久の乱のあと、事実上、日本の首都となった鎌倉の発展はめざましく幕府も若宮大路の東側まで進出し、町は西方へむかって発達した。また、北条氏一門の邸や別荘が鎌倉の出入口をかためるように配置された。 市政に関しては、政所が市中の行政およびあるしゅの警察権をもち、地奉行、その下に保奉行が置かれて、道路の保全・清掃・篝屋の管理、通行人の取締、不法な商行為、人身売買、賭博その他の治安維持、風俗矯正の任にあたった。商業については、物価の抑制をはかったり、酒の売買を禁じたりしているが、成功しなかった。 建長三年、文永二年(1260)の二度にわたり、市内七か所に町御免の場所を定めている。社寺としては、鶴岡八幡宮・勝長寿院・永福寺・大慈寺が、鎌倉時代前半の代表的大寺社であり、後半になって、得宗の所領である山ノ内地区に、建長寺・円覚寺・東慶寺などの禅宗寺院が建立されたことがきわだっている。
鎌倉時代を通じて、市中でも戦乱があり、地震・火災・洪水などの災害も少なくなかったが、鎌倉の最盛期は、北条氏の末頃であったと考えられる。
南北朝の前半には、足利尊氏が京都に幕府をひらき、足利義詮が鎌倉にいたが、北畠顕家の西上の時には、かなり荒らされたらしい。打ちつづく戦乱・内訌の舞台となったのである。
天正十八年(1590)豊臣秀吉は後北条氏を滅ぼしたのち、関八州の大部分を徳川家康に与えた。鎌倉にも検地が行われたが、貫高を改めず、石盛をしていない。これは社寺領が多く、生産力も大きくなかったからであろう。 明治維新後、武家政治発祥の地である鎌倉で、明治天皇は第一回陸軍特別大演習を行った。 横須賀線が開通すると、葉山御用邸開設などの影響があって、鎌倉は名士の別荘地となり、海軍士官の住宅もでき、海水浴場としても有名となった。現在は東京のベッドタウンであるが、一方、また緑の古都として遊覧客が激増している。
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| 〔文献〕『市史』総説編、貫達人編『文化財散歩』(学生社) |